家族安泰と教会生活
救いは家族で祈ることで強めれそうに思う。
たしかに一家で礼拝に来る人の聖日はあわただしい。
母親は子供の監視に疲れ、父親は体を休める時減る。
では一体教会に行く意味があるのか。あかしにならないではないか。
神様は恵を与える方ではないのか。
そんな風に考え、家族の安らぎがあかしにつながる、と思っていた。
なので、聖日の礼拝は必要条件ではなく、まず家族ありきと。
しかし、コリントの手紙でパウロは、”夫は妻を喜ばせようとしてこの世的な事に
気を取られる”、といった旨のメッセージを記した。
神様の力をそこに感じずにはいられなかった。
以降、神様への個人礼拝が倍の時間になった。
しかし、教会に足がなかなか継続しては向かない。
世のことも大事だ。健康も、育児も、家族の団欒も。
けれども、神様の恵みを受けることが具体的にどういうことか、
なぜ古今東西に渡り、イエスキリストをまつる聖日が多くの人を救い、
幸いな歩みをもたらしているのか、少し考えて、
改めて、自分が生かされていることを自覚しておくべきだろう。
その時、神様のもとへ帰り、喜べるだろうと思う。
パウロの手紙は信仰から遠ざかりつつあった状態に霊的な息を与えてくれた。