自我の探検

 大学時、心理学を少しかじった私は、聖書信仰のいうところの
「聖霊」、「御子」、「奇跡」などあまり受け入れたくありませんでした。
そんなことをすれば、「思考力」の阻害になると思ったからです。
 また、卒論も迫っていたため、あまり他の世界に足をつっこむと
留年してしまう危機感がありました。
聖書からは遠ざかってしまいました。
 ただ、三浦綾子さんの「道ありき」は、読みました。
そこには、作者の闘病から、結婚、信仰までのドラマが書かれていました。
 しかし、直接の影響は、その時はありませんでした。
私が大学時もっとも影響を受けたのは、「夏目漱石」でした。
ギターの先生(兼古隆雄師)に薦められたのがきっかけでしたが、
どんどん深みにはまり、むさぼり読みました。
「こころ」、「明暗」、「道草」、「彼岸過ぎまで」、「虞美人草」、、
その中で、「虞美人草」は10回くらい読みました。
何しろ、文章ひとつひとつを読むのに骨が折れたので、かえって
むきになったのです。

例:第2章より
「紅(くれない)を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽んずる
紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴たらし
たるが如き女である。、、、」

本文を通して読むと何の形容かわかるのですが、初めて目にしたら、
いったい何を言ってるかわからない、という表現がたっぷりあります。

 書籍紹介はまた別の機会に行いたいと思いますが、漱石の小説は
人間の共通して持つ「エゴ」の描写が的確にされていると思います。
そんな作品の影響をうけ、私は毎日、自分のとってきた行動を
反省するようになりました。
 「人を傷付ける表現」「人を不愉快にする話題」「人を見下した考え方」
 「自分を高いところに置こうとする思い」→総称して「エゴ」
それらが複雑にまざりあって、「不快」を生み出している、即ち、
すべての不快感は「エゴ」から来ており、それを直視することによって
絶えず自分の弱さを自覚でき、より強く、そして他人とも良い関係が
できる。そういう結論に至りました。
  しかし、「弱さの自覚」はいつでもできるわけではありません。
  そういう状態の意識を保たねばなりません。
  そこで遭遇した処方箋が「断食」です。

今から考えると、よく死ななかったと思うくらい、「断食」そして
「少食」を続けました。
ただ、体に良いものと悪いものを見分ける感覚はこの時に培われました。
断食で私は、たしかに「感覚」が冴えました。そして、それまでに
なかった思考力の向上がありました。いろんな自分の悪いところが見えて
来ました。それらを一つ一つ紙に書いたりもしました。
世間とはご無沙汰になっていきました。
その行き着くところの目標を自分なりに考えました。
仙人になるか?いや、そんな具体的なものではありませんでした。
いったい自我を究明して何を、どう世の中に提供したいのか、
どうやって身を立てたいのか、、、

 答えを出せないまま、卒論が無事終わり、私は就職しました。
実は就職せずに、留学を考えてました。しかし、土壇場で、
保守的な本来の自分に戻り、周囲の勧めもあって、就職しました。
この選択は、間違っていませんでした。
留学の目的も、帰国後の計画もないまま、学ぶことが目的で
行く留学は必ず失敗することをあとになって知りました。

 就職して何ヶ月か後に、私は再びエゴ究明に走りました。
自らを鍛えるため、朝から5Km走ったりもしました。
しかし、酒の量は増えました。
様々な人間関係のトラブルを乗り越えるために、必然的だったのです。
「自分の身は自分で守る」
やはりこの時点でも自分中心です。
時々聖書も開きましたが、生活の糧とまではなっていませんでした。

何より神様が自分を造られたことを信じていなかったのです。
これではいくら断食しても、座禅を組んでも、仙人になっても、
永久にエゴに苦しめられっぱなしです。

そんなある日、友人から教会へ来てみないかという誘いがありました。

つづく

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